IP case studies判例研究

平成29年(行ケ)第10106号「抗-ErbB2抗体による治療」事件

名称:「抗-ErbB2抗体による治療」事件
審決取消請求事件
知的財産高等裁判所:平成29年(行ケ)第10106号 判決日:平成30年10月22日
判決:審決取消
特許法29条2項
キーワード:相違点の判断、実験データ、有利な効果
判決文:http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/068/088068_hanrei.pdf
[概要]
発明の効果について、明細書には比較対象及び有効性の程度の記載がなく、定性的な効果の記載にとどまるところ、本件優先日後の刊行物の臨床試験データは上記定性的効果の記載を超えて参酌することはできないとして、効果の顕著性が認められず進歩性が否定された事例。
[事件の経緯]
原告は、特許第5623681号の特許権者である。
被告が、当該特許の請求項1~9に係る発明についての特許を無効とする無効審判(無効効2016-800021号)を請求し、原告が訂正を請求したところ、特許庁が、請求不成立(特許維持)の審決をしたため、原告は、その取り消しを求めた。
知財高裁は、原告の請求を認容し、審決を取り消した。
[本件発明]
【請求項1】
ErbB2タンパク質が発現した乳腫瘍であると診断されたヒトの患者を治療するための、治療的有効量のヒト化4D5抗ErbB2抗体を含有してなる医薬であって、該治療が(a)該医薬によって患者を治療する、(b)外科的に腫瘍を除去する、及び(c)該医薬又は化学療法剤によって患者を治療するという工程を順次行うことを含む治療である、医薬。
[審決]
審決では、出願時の技術常識を参酌すれば、本件特許発明1は引用文献から当業者が容易に着想し得るものであると認定したうえで、本件優先日後に公開されたデータから、本件特許発明1の対象である『手術可能乳がんは、上記甲1~3及び甲6において治療効果が示された転移性乳がんに比べて早期の病期ではあるものの、41.7%とか40.4%などといった上記pCRの改善幅や3年無イベント生存率の改善といった効果が得られることまでを、完全奏効率2.3%などの上記各甲号証における治療効果から当業者といえども予測し得たとはいえない』と認定し、本件特許発明1は進歩性を有すると判断された。
[取消事由]
1 取消事由1(甲1に基づく新規性判断の誤り~原告ら主張の取消理由1)
2 取消事由2(甲2に基づく新規性判断の誤り~原告ら主張の取消理由2)
3 取消事由3(甲1を主引例とする進歩性判断の誤り)
4 取消事由4(甲2を主引例とする進歩性判断の誤り)
5 取消事由5(甲3を主引例とする進歩性判断の誤り)
※以下、本判決で判断がなされた取消事由3についてのみ記載する。
[裁判所の判断](筆者にて適宜抜粋)
3 取消事由3(甲1を主引例とする進歩性判断の誤り)について
『(3) 相違点1の容易想到性について
・・・(略)・・・
また、前記2(3)エによると、本件優先日当時、乳がんの治療薬の開発においては、転移性乳がんの患者に対する抗がん効果を踏まえて、手術可能乳がんの患者に対する抗がん効果を確認することになることは、技術常識であったものと認められる。
そして、これらに、本件優先日前に頒布された刊行物であり、「乳がんのための術前補助療法の将来的方向」を表題とする甲2には、抗HER2抗体とドキソルビシン、シクロホスファミドを転移性乳がん患者に対し併用投与する臨床試験を紹介した直後に、「一次化学療法と組み合わせたこれらの新たな戦略の役割は、早期乳がんの患者で評価されるべきものである」と記載されている(前記2(1)イ(ア)(カ))ことを総合すると、甲1に接した当業者は、HER2蛋白を過剰発現する手術可能乳がんの治療のために、治療的有効量の抗HER2抗体を含有する医薬である甲1発明の医薬を適用することを容易に想到するものと認められる。
・・・(略)・・・
(4) 本件特許発明1の効果について
ア 前記1のとおり、本件訂正明細書には、本件特許発明1の効果として、臨床試験の結果などは示されておらず、「上記の治療方法に従って治療された患者は、全体的に改善された生存者、及び/又は腫瘍の進行時間(TTP)の延長を示すであろう。」(【0119】)との記載があるにとどまる。
ところで、前記2(1)(2)の各刊行物の記載からすると、乳がんにおいて、生存率及び腫瘍の進行時間(TTP)は、抗がん剤の効果を図る一般的な指標であると認められるところ、上記の本件訂正明細書の記載は、生存率の改善及び腫瘍の進行時間 (TTP)の延長がいかなる対象(例えば、手術のみを行った場合か、手術と術後 化学療法を行った場合か、術前化学療法と手術と術後化学療法を行った場合か、術前化学療法と手術と抗HER2抗体の術後投与を行った場合か、手術可能乳がんに対し抗HER2抗体投与のみを行った場合か)と比較して達成されるものであるのかという比較対象や、生存率の改善や腫瘍の進行時間(TTP)の延長がいかなる程度達成されるのかという有効性の程度については、何ら記載されていない。また、本件訂正明細書の記載から、その比較対象や有効性の程度を当業者が推論できるものとも認められない。
そうすると、本件特許発明1の効果は、本件特許発明1の医薬がこれを投与しない場合と比較して生存率の改善及び腫瘍の進行時間(TTP)の延長という定性的効果を有することにとどまるものとするのが相当である。
そして、前記2(1)アのとおり、・・・(略)・・・当業者は、甲1発明の医薬が、HER2蛋白を過剰発現する転移性乳がん患者に対し、生存率の改善及び腫瘍の進行時間(TTP)の延長という定性的効果を有することを理解することができ、この甲1発明の医薬を本件特許発明1の工程によりHER2蛋白を過剰発現する手術可能乳がんに適用した場合に、これを投与しない場合と比較して生存率の改善及び腫瘍の進行時間(TTP)の延長という定性的効果を有することは、当業者が予測可能なものである。
イ 被告は、本件訂正明細書の発明の効果の定性的な記載に基づき、具体的な実験データを参照することは妥当であるから、甲17、19〔審判乙1、3〕に基づき本件特許発明1には顕著な効果があるなどと主張する。
しかし、前記アのとおり、本件訂正明細書の記載及びこれから推論できる本件特許発明1の効果は、本件特許発明1の医薬がこれを投与しない場合と比較して生存率の改善及び腫瘍の進行時間(TTP)の延長という定性的効果を有することにとどまる。そこで、本件優先日後の刊行物である甲17、19〔審判乙1、3〕の実験データを、本件訂正明細書の記載の範囲で、上記定性的効果を示すという限度において参酌するとしても、前記アのとおり、上記定性的効果は当業者が予測可能なものであるから、顕著な効果を示すものということはできない。他方、甲17、19〔審判乙1、3〕の実験データを、上記定性的効果を超えて参酌することは、本件訂正明細書の記載の範囲を超えるものであるから、これを本件特許発明1の効果として参酌することはできない。その余の本件優先日後の刊行物である甲18、20、21〔審判乙2、4、5〕についても、同様である。
したがって、本件優先日後の刊行物である甲17~21〔審判乙1~5〕については、その具体的内容を検討するまでもなく、本件特許発明1に顕著な効果があることを示すものということはできない。
(5) 本件特許発明1についての小括
以上によると、本件特許発明1は、甲1発明及び甲1~4に記載された事項に基づいて、当業者が容易に発明をすることができたものであると認められる。』
[コメント]
本件特許発明は、転移性乳がんよりも早期のがんである手術可能な乳がんに対して手術前のHER2投与と手術後の化学療法を行う用法により特定された、医薬の発明である。そして、本件優先日後の臨床試験データとして、本件特許発明に係る用法によって定量的な実験データが示されている。一方、優先日前の引用文献では、転移性乳がんにHER2と、別の化学療法とを併用した場合の奏効率が記載されていた。
裁判所は、明細書には臨床試験のデータが記載されておらず、「上記の治療方法に従って治療された患者は、全体的に改善された生存者、及び/又は腫瘍の進行時間(TTP)の延長を示すであろう。」との記載にとどまることに着目し、本件特許発明1の効果は、本件特許発明1の医薬がこれを投与しない場合と比較して生存率の改善及び腫瘍の進行時間(TTP)の延長という定性的効果を有することにとどまるものとするのが相当と判断した。「日焼け止め剤組成物」事件(知財高裁・平成21年(行ケ)第10238号)では、『当業者において「発明の効果」を認識できる程度の記載がある場合やこれを推論できる記載がある場合には、記載の範囲を超えない限り、出願の後に補充した実験結果等を参酌することは許されるというべきであり、許されるか否かは、前記公平の観点に立って判断すべきである』と判示されている。本判決の実験データの参酌はこの判決内容に沿ったものであり、発明を公開する代償として特許権が付与されることを考慮すれば、過度な参酌を制限した妥当な判決であろう。
被告は、「日焼け止め剤組成物」事件のほか、平成20年(行ケ)第10353号、平成22年(行ケ)第10203号の各判決を挙げて、『明細書における発明の効果の定性的な記載に基づき、具体的な実験データを参照することは妥当である』と主張した。しかし、これらの判決では、いずれも本判決と同様に、まず明細書の記載から比較対象及び発明の定性的効果の両方を認定し、そのうえで比較対象より優れた効果という定性的な効果の有無を、実験データをもとに判断している点に留意すべきである。
医薬分野においては、先願主義の観点から臨床試験データの取得を待たずに特許出願する必要性から、いわゆるペーパーイグザンプルの形で試験計画を記載したうえで出願し、後出しの実験データをもとに進歩性の主張を行わざるを得ないケースも多い。その場合は出願時に予め従来技術と比べた有利な効果を記載しようとしても、従来技術と同質かつ定性的な効果の記述にならざるを得ない場合がある。そのような場合であっても、比較対象となる従来技術に比べて出願に係る効果が定性的に優れていることをもって有利な効果として主張できる可能性を確保するために、適切な比較対象と、その比較対象と比べて有利な効果があること、の両方を予め明細書に明記しておくことが望ましい。
以上
(担当弁理士:小林 隆嗣)

平成29年(行ケ)第10106号「抗-ErbB2抗体による治療」事件

PDFは
こちら

Contactお問合せ

メールでのお問合せ

お電話でのお問合せ