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平成28年(行ケ)第10041号「潤滑油組成物」事件

名称:「潤滑油組成物」事件
審決取消請求事件
知的財産高等裁判所:平成28年(行ケ)第10041号 判決日:平成28年9月28日
判決:請求棄却
特許法36条4項1号
キーワード:実施可能要件、過度の試行錯誤
[概要]
当業者が、本願明細書の発明の詳細な説明の記載や技術常識を考慮しても、本願発明の粘度指数向上剤の化学構造を知ることができないため、本願発明の粘度指数向上剤を製造して入手するには、過度の試行錯誤を要するといわざるを得ないとして、実施可能要件を満たさないとされた事例。
[事件の経緯]
原告が、特許出願(特願2009-135366号)に係る拒絶査定不服審判(不服2014-6385号)を請求して補正したところ、特許庁(被告)が、請求不成立の拒絶審決をしたため、原告は、その取消しを求めた。
知財高裁は、原告の請求を棄却した。
[本願発明]
【請求項1】
100℃における動粘度が1~20mm2/sであり、%CPが70以上であり、%CAが2以下であり、%CNが30以下である潤滑油基油と、
13C-NMRにより得られるスペクトルにおいて、全ピークの合計面積に対する化学シフト36-38ppmの間のピークの合計面積M1と化学シフト64-66ppmの間のピークの合計面積M2の比M1/M2が0.20以上3.0以下であるポリ(メタ)アクリレート系粘度指数向上剤と、
を含有し、40℃における動粘度が4~50mm2/sであり、100℃における動粘度が4~12mm2/sであり、100℃におけるHTHS粘度が5.0mPa・s以下であることを特徴とする潤滑油組成物。」
[審決の理由の要点](筆者にて適宜抜粋)
① 本願発明に対応する、実施例における唯一の粘度指数向上剤は、本願明細書【0104】に記載された「A-1」であるが、A-1について、具体的な構造、又は、製造方法やモノマー成分など、構造をうかがい知るための記載がなく、複数のパラメーターについての数値が示されているだけである。
そこで、各種パラメーターが、他の発明の詳細な説明の記載や技術常識に基づいて、具体的な化学構造を示すことに代わり得るものといえるかが問題となる。
②[1] 13C-NMRの化学シフト(M1、M2、M1/M2)は、分子構造中に存在する各炭素原子の周囲の原子配置状況に応じて決まるものであるが、特定の化学構造が対応するものではなく、化学シフトの範囲や「特定のβ分岐構造」といった手掛かりが与えられても(【0056】)、粘度指数向上剤の構造を特定することは極めて困難である。
[2] R2に関する記載は漠然としており(【0059】【0060】)、化学シフトの記載と併せても、具体的にどのような化学構造を有するモノマー成分を使用すればよいかは明らかにならない。
[3] 動粘度の増粘比(ΔKV40/ΔKV100)については、好ましい数値範囲や測定方法が記載されているだけであり(【0069】)、粘度指数向上剤の構造との相関関係といった事項についての記載はないので、化学構造に対する示唆が得られるものではない。
[4] HTHS粘度の増粘比(ΔHTHS100/ΔHTHS150)、重量平均分子量(Mw)、永久せん断安定指数(PSSI)、重量平均分子量と数平均分子量の比(Mw/Mn)、重量平均分子量とPSSIの比(Mw/PSSI)についても、好ましい数値範囲が説明されているだけであり(【0065】~【0070】)、粘度指数向上剤の構造との関連性が何ら記載されていない。
③ 以上から、個別のパラメーターからは、また、全てのパラメータを併せても、A-1の化学構造を特定できない
④ A-1が共重合体というものであれば(【0059】【0061】)、他のモノマー成分の構造とともに、複数のモノマー間の比率についても明らかにされなければならないが、何ら特定されていないに等しい(【0062】【0063】)。
⑤ 以上から、A-1は、当業者において入手することができない。
そうすると、本願明細書の発明の詳細な説明は、当業者が実施できる程度に明確かつ十分に記載されたものではない。
[原告の主張](筆者にて適宜抜粋)
本願出願時の技術常識を有する当業者は、本願発明の詳細な説明に記載された、①「R2は炭素数16以上の直鎖または分枝状の炭化水素基」である式(1)(【0059】)で表される構造単位を有し、②重合開始剤の存在下でラジカル溶液重合させることにより得られ、③好ましい重量平均分子量(Mw)や重量平均分子量と数平均分子量の比(Mw/Mn)のポリ(メタ)アクリレート系粘度指数向上剤(以下、本願発明の粘度指数向上剤と区別するために、「ポリ(メタ)アクリレート系粘度指数向上(1)」という。)を、常法により製造するか又は購入することによって、入手することができる。
このポリ(メタ)アクリレート系粘度指数向上剤(1)として、①[1]β分岐構造を有する、メタクリル酸2-エチルヘキシル(甲8【0013】)、2-デシルテトラデシルメタクリレート、2-ドデシルオクチルメタクリレートなどのpが1である一般式(1)で示される単量体(a)(甲9・・・(略)・・・)と、[2]直鎖構造を有する、メタクリル酸アルキル(甲8・・・(略)・・・、甲9・・・(略)・・・)との共重合体、②特開2003-147332号公報(甲16・・・(略)・・・)及び特開平7-300596号公報(甲17・・・(略)・・・)に記載された粘度指数向上剤が挙げられる。
そうすると、本願明細書の発明の詳細な説明の記載に接した当業者は、ポリ(メタ)クリレート系粘度指数向上剤(1)につき、13C-NMR測定を行い、M1/M2が0.20以上3.0以下のポリ(メタ)アクリレート系粘度指数向上剤を得ればよい。
したがって、審決の実施可能要件に関する判断には、誤りがある。
[被告の主張](筆者にて適宜抜粋)
粘度指数向上剤(1)に該当するものは、ほぼ無限にあるとみるのが妥当であるところ、本願明細書には、粘度指数向上剤(1)を具体的に特定する化学構造、製造方法、製品名(番号)、入手方法等についての記載がなく、また、入手可能な粘度指数向上剤の数も極めて多数に及ぶ。そうすると、当業者は、本願発明のM1/M2が0.20以上3.0以下であるポリ(メタ)アクリレート系粘度指数向上剤を取得するために、極めて多数の入手可能な粘度指数向上剤のそれぞれを対象にして、M1及びM2を測定する必要性が生じる。このような測定は、過度の試行錯誤を求めるものであり、非現実的である。
一方、本願明細書には、M1とポリ(メタ)アクリレート側鎖の「特定のβ分岐構造」との間、及び、M2とポリ(メタ)アクリレート側鎖の「特定の直鎖構造」との間に対応関係があることについて、具体的に説明する記述はないのであるから、当業者が、「特定のβ分岐構造」及び「特定の直鎖構造」を有するポリ(メタ)アクリレート側鎖を有する粘度指数向上剤を実物として入手することは、実質的に不可能である。
したがって、審決の実施可能要件に関する判断には、誤りはない。
[裁判所の判断](筆者にて適宜抜粋)
『2 取消事由(実施可能要件に関する判断の誤り)について
(1) 本願明細書の発明の詳細な説明について
ア 粘度指数向上剤の入手について
本願発明は、前記第2、2に記載のとおりの潤滑油基油と粘度指数向上剤を含有する潤滑油組成物であるところ、・・・(略)・・・A-1の具体的な化学構造や製造方法、製品名・商品名等についての記載はなく(【0104】)、本願明細書には、式(1)(【0059】)と各種パラメーターが示されているだけである。そこで、本願明細書に接した当業者が、これら特定事項と技術常識から、本願発明にいう粘度指数向上剤を製造できるものであるか否かを、更に検討する。
イ M1/M2について
(ア) 本願出願当時の技術常識
① 【0056】には、M1がポリメタアクリレート側鎖のβ分岐構造に対応し、M2がポリメタアクリレート側鎖の直鎖構造に対応するとの記載がある。
ここで、直鎖構造とは、直鎖状の炭化水素基、すなわち、炭素原子が一列に並んだ鎖状の炭化水素基を意味し、β分岐構造とは、(メタ)アクリレートのエステル基に結合する側からみて、β位(2番目)の炭素で枝分かれ(分岐)している分枝状の炭化水素基を意味するものである。
ポリ(メタ)アクリレート系粘度指数向上剤は、潤滑油添加剤として汎用され(甲7参照)、多数市販もされており(甲10、12参照)、その単量体として炭素数1~24程度の様々な炭素数の直鎖又は分枝状の炭化水素基を側鎖に有する(メタ)アクリレートが使用されており(甲8、9、13、14参照)、直鎖構造を有する単量体とβ分岐構造を有する単量体とを共重合して製造され得ることも一般的に知られている(甲16、17参照)。
② 【0053】には、M1又はM2は、13C-NMR(核磁気共鳴分析)により得られるスペクトルにおける全ピークの合計面積に対する化学シフトの合計面積の割合とされている。・・・(略)・・・
このように、化学シフトの値と分子構造との間には一定の関係があるものの、ある分子構造が有する化学シフトの幅は相当に広いから、ある値の化学シフトから直ちに特定の分子構造が導けるわけではない。・・・(略)・・・
したがって、化学シフトが特定されれば、直ちに、それに対応する原子配置が一義的に特定されるものではない。
(イ) M1、M2及びM1/M2
【0056】には、M1について、「全ピークの合計面積に対する化学シフト36-38ppm の間のピークの合計面積(M1)は、13C-NMRにより測定される、全炭素の積分強度の合計に対するポリ(メタ)アクリレート側鎖の特定のβ分岐構造に由来する積分強度の割合」との記載がある。この記載は、「化学シフト36-38ppmの間のピーク」に対応するものは「ポリ(メタ)アクリレート側鎖の特定のβ分岐構造」を有する炭素原子であることをいうものである。ところで、「特定のβ分岐構造」の「特定の」の内容を更に特定する記載が本願明細書にあるとは認められないから、「特定の」は、「ある、その」との趣旨の修飾語にすぎず、本願明細書においては、「特定のβ分岐構造」とは、単に、β分岐構造と同義のことをいうものと理解される。
・・・(略)・・・上記同様に、「特定の直鎖構造」の「特定の」の内容を更に特定する記載が本願明細書にあるとは認められないから、本願明細書においては、「特定の直鎖構造」とは、直鎖構造と同義のことをいうものと理解される。
(ウ) 製造について
以上からすると、①ポリ(メタ)アクリレート側鎖の具体的な分岐構造や直鎖構造は、M1、M2又はM1/M2だけからでは特定できず、そして、②直鎖又は分枝状の炭化水素基を側鎖に有する(メタ)アクリレートを使用し、β分岐構造を有する単量体と直鎖構造を有する単量体とを共重合して製造することは技術常識であり、また、式(1)のR2の炭素数16以上の直鎖状又は分岐状の炭化水素基は、極めて多数存することが想定されるから、これらの特定から製造され得る粘度指数向上剤は、多数ある周知の粘度指数向上剤と特段変わるところはないといえる。そして、その多数の粘度指数向上剤の中から、M1、M2の狭い範囲のピークの面積の比を制御するために、具体的に、どの単量体をどの比率で用いればよいかについての手掛かりは、本願明細書には記載されていない。
ウ その他のパラメーター
・・・(略)・・・本願明細書には、上記増粘比又は指数と粘度指数向上剤の化学構造に関しては何らの記載がなく、また、これら比や指数と粘度指数向上剤の化学構造との間に関する何らかの相関関係があるとする技術常識も認められない。
エ 小括
以上のとおりであり、当業者は、本願明細書の発明の詳細な説明の記載や技術常識を考慮しても、本願発明の粘度指数向上剤の化学構造を知ることができない。結局、当業者は、本願発明の粘度指数向上剤を入手するために、本願明細書の記載に基づいて、一般式(1)の構造単位となる単量体0.1~70モル%と、その他の任意の(メタ)アクリレート単量体や任意のオレフィン等に由来する単量体を含み、かつ、側鎖にβ構造を有する単量体と直鎖構造を有する単量体との混合物を共重合して粘度指数向上剤を製造した後、その13C-NMRを測定し、M1/M2が0.2~3.0の範囲に含まれるか否か確認するという作業を、極めて多数の粘度指数向上剤について繰り返し行わなくてはならない。
そうすると、当業者が、本願発明の粘度指数向上剤を製造して入手するには、過度の試行錯誤を要するといわざるを得ない。
したがって、本願明細書は、当業者が実施できる程度の明確かつ十分に記載されたものとは認められない。』
[コメント]
本願明細書の発明の詳細な説明の記載に接した当業者は、ポリ(メタ)クリレート系粘度指数向上剤(1)につき、13C-NMR測定を行い、M1/M2が0.20以上3.0以下のポリ(メタ)アクリレート系粘度指数向上剤を得ればよいとの原告の主張に対して、裁判所は、本願明細書の発明の詳細な説明の記載における特定では、当業者が、本願発明の粘度指数向上剤を製造して入手するには、過度の試行錯誤を要するといわざるを得ないと判断した。
すなわち、本件は、明細書から粘度指数向上剤にかかる(メタ)アクリレート共重合体の化学構造を知ることができないため、上記のパラメーターを満たす(メタ)アクリレート共重合体を製造するには、当業者に過度な試行錯誤を強いるものと判断したものであり、従前の知財高裁判決(例えば、被覆硬質部材事件;平成19年(行ケ)第10308号など)と同様の判断であり、妥当といえる。
また、本願出願においては、上記のパラメーターは、出願当初から請求項1に記載された発明特定事項であり、本願の課題の内容や実施例等を併せて鑑みると、出願人にとって、従来技術に見られなかった特有の技術的思想を構成する特徴的部分であると考えていたと推察される。このため、本件のような争いを避けるためには、予め明細書には、少なくとも、上記のパラメーターにかかる(メタ)アクリレート共重合体の具体的な製造方法(具体例)の記載、あるいは市販品であれば入手先(商品名など)の記載をしておくべきであったと考えられる。
以上
(担当弁理士:片岡 慎吾)

平成28年(行ケ)第10041号「潤滑油組成物」事件

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