審決取消請求事件 » 平成28年(行ケ)第10044号「赤外線センサ」事件

名称:「赤外線センサ」事件
審決取消請求事件
知的財産高等裁判所:平成28年(行ケ)第10044号 判決日:平成29年6月20日
判決:審決取消
特許法29条2項
キーワード:進歩性、周知技術、動機付け、阻害要因
判決文:http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/847/086847_hanrei.pdf

[概要]
ドーパントがなるべく除去されている引用発明Cの第2の化合物半導体層を、本件発明1の濃度の程度にまでp型ドーピングすることは、実質的にも相違し、第2の化合物半導体層と第3の化合物半導体層との間に伝導帯レベル差ΔEcを生じさせ、比検出能力を向上させるために調整された引用発明Cの構成を変更するものである上、光吸収層にp型ドーピングすることが可能であるという周知技術の記載を受けても、引用発明Cの第2の化合物半導体層を、本件発明1の濃度の程度にまでp型ドーピングすることへの動機がなく、阻害要因もあるため、容易になし得たものではない、とされた事例。

[事件の経緯]
原告は、特許第4086875号の特許権者である。
被告が、当該特許の請求項1~18に係る発明についての特許を無効とする無効審判(無効2013-800203号)を請求したところ、原告は訂正請求をしたが、特許庁が、訂正を認めた上で請求認容(特許無効)の審決をしたため、原告は、その取り消しを求めた。
知財高裁は、原告の請求を認容し、審決を取り消した。

[本件発明](訂正後の発明)
【請求項1】(本件発明1)
基板と、
該基板上に形成された、複数の化合物半導体層が積層された化合物半導体の積層体とを備え、室温において冷却機構無しで動作が可能な赤外線センサであって、
前記化合物半導体の積層体は、
該基板上に形成された、インジウム及びアンチモンを含み、n型ド-ピングされた材料である第1の化合物半導体層と、
該第1の化合物半導体層上に形成され、ノンドープあるいはp型ド-ピングされた、InSb、InAsSb、InSbNのいずれかである第2の化合物半導体層と、
該第2の化合物半導体層上に形成された、前記第2の化合物半導体層よりも高濃度にp型ド-ピングされ、かつ前記第1の化合物半導体層、及び前記第2の化合物半導体層よりも大きなバンドギャップを有する材料であるAlZIn1-ZSb(0.1≦z≦0.5)の第3の化合物半導体層と
を備え、
前記第1の化合物半導体層のn型ド-ピング濃度は、1×1018原子/cm3以上であり、
前記第2の化合物半導体層のp型ド-ピング濃度は、1×1016原子/cm3以上、1×1018原子/cm3未満であり、
前記第3の化合物半導体層のp型ド-ピング濃度は、1×1018原子/cm3以上であることを特徴とする赤外線センサ。

[取消事由](本稿では取消事由1のみを採り上げる)
取消事由1:引用発明Cに基づく本件発明1の進歩性判断の誤り
取消事由2:引用発明Aに基づく本件発明1の進歩性判断の誤り
取消事由3:引用発明Bに基づく本件発明1の進歩性判断の誤り

[審決の要旨]
1.相違点c-1(相違点c-2、c-3は省略する。)
InSbである第2の化合物半導体層に関して、本件発明1は、
a「p型ド-ピングされた」ものであって、
b「p型ド-ピング濃度は、1×1016原子/cm3以上、1×1018原子/cm3未満」であるのに対して、
引用発明Cは、「意図的にド-プされておらず」、「π-InSb」である点。
2.相違点c-1に対する判断
赤外線検出器において、雑音を低減する手段として、想定される動作温度に応じて光吸収層の導電型を変更したり、室温近くで動作する赤外線検出器の光吸収層をp型ドーピングして所望のp型キャリア濃度にしたりすることは、本件特許の出願日当時周知であった。
赤外線PINフォトダイオードの技術常識によれば、π型光吸収層のp型ドーピング濃度は、おおよそ1×1016原子/cm3以上、1×1018原子/cm3未満の範囲であるところ、引用発明Cの第2の化合物半導体層を、p型ドーピングとして、当該ドーピング濃度を1×1016原子/cm3以上、1×1018原子/cm3未満とすることは、当業者が適宜なし得る設計事項にすぎない。

[裁判所の判断]
2.取消事由1(引用発明Cに基づく本件発明1の進歩性判断の誤り)について
(4) 相違点c-1について
イ 実質的相違点、設計事項
『(ア)引用発明Cのπ-InSbからなる第2の化合物半導体層は、前記(1)(ウ)、(エ)のとおり、「近真性p」としての性質を示し、かつ、「Undopted」とされているから、その性質は、実質的に真性半導体に近く、p型としての性質は、結晶欠陥の存在等に由来する程度のものであって、ドーパントはなるべく除去されているものと認められる。』
『そうすると、引用発明Cは、第2の化合物半導体層のドーパントをなるべく除去した上で、第3の化合物半導体層との間の伝導帯レベル差ΔEcに着目したものであるから、第2の化合物半導体層と第3の化合物半導体層のドーピングの型やドーピング濃度は、第2の化合物半導体層と第3の化合物半導体層との間に伝導帯レベル差ΔEcを生じさせ、比検出能力を向上させるために調整される要因であることは明らかである。』
『(イ)したがって、ドーパントがなるべく除去されている引用発明Cの第2の化合物半導体層を、本件発明1の濃度の程度にまでp型ドーピングすることは、実質的にも相違し、第2の化合物半導体層と第3の化合物半導体層との間に伝導帯レベル差ΔEcを生じさせ、比検出能力を向上させるために調整された引用発明Cの構成を変更するものであるから、当業者が適宜なし得る設計事項であるということはできない。』
ウ 周知技術の適用
(ア)被告主張に係る周知技術について
『被告は、引用例1、・・・(略)・・・から、①光吸収層のドーピングは、他の層のドーピング等とともに適切に設計されること、②ノンドープ、p型及びn型のいずれも可能であること、③p型とする場合、本件発明1の濃度範囲程度とすること、④低濃度p型(p-)がπ型と呼ばれることが、光吸収層における周知技術と認められる旨主張する。』
『しかし、光吸収層のドーピングについて、・・・(略)・・・旨記載されている。』
『そうすると、赤外線検出器の検出能力を向上させるためには、その目的に応じて、光吸収層のドーピングを調整することが必要であるというべきである。引用例3、引用例4、甲5ないし7から、おおよそ赤外線検出器の検出能力を向上させるための技術事項として、「光吸収層のドーピングが、他の層のドーピング等とともに適切に設計されること」(前記①)や、光吸収層のドーピングが「ノンドープ、p型及びn型のいずれも可能であること」(前記②)といった抽象的な技術事項は認めることはできない。・・・(略)・・・。なお、そもそも、引用発明Cに、被告が主張するような複数の周知技術を組み合わせることは容易に想到できるものではないから、この点からも、被告の主張は失当である。』
(イ)本件審決が認定した周知技術について
『(b) しかし、前記(ア)で検討したとおり、赤外線検出器の検出能力を向上させるためには、その目的に応じて、光吸収層のドーピングを調整することが必要である。』
『そうすると、赤外線検出器の検出能力の向上をさせるために、光吸収層に所定の濃度のp型ドーピングを行う際には、それによって生じ得る現象を考慮しなければならないことも認められる。』
『(c) 以上のとおり、赤外線検出器の検出能力を向上させるために、光吸収層に所定の濃度のp型ドーパントを含ませるのは、光吸収層(第2の化合物半導体層)の伝導帯の電子密度を低減させるという目的のために行われるものであって、また、それによって生じ得る現象を考慮しなければならないものである。
そうすると、本件審決が認定するように、赤外線検出器において、おおよそ雑音を低減する手段として、光吸収層にp型ドーピングを行うことが、本件特許の出願日当時、周知であったと認めることはできない。』
(エ)本件周知技術の適用
『a 動機付け
本件周知技術において、光吸収層に所定の濃度のp型ドーパントを含ませるのは、光吸収層の伝導帯の電子密度を低減させるという目的のために行われるものである。
これに対し、引用発明Cは、赤外線検出器の検出能力を向上させる一つの手段として、第2の化合物半導体層と第3の化合物半導体層との間の伝導帯レベル差ΔEcに着目し、かかる観点から、第2の化合物半導体層と第3の化合物半導体層のドーピングの型やドーピング濃度を調整したものであって、また、引用発明Cの第2の化合物半導体層のドーパントはなるべく除去されたものである。
そうすると、本件周知技術が、光吸収層の伝導帯の電子密度を低減させることを課題として第2の化合物半導体層(光吸収層)にp型ドーパントを含ませるのに対し、引用発明Cは、バリア層として伝導帯レベル差ΔEを有しており、そのような課題を有しないから、光吸収層にp型ドーパントを含ませる必要がない。また、光吸収層にp型ドーパントを含ませることによって、一般的に赤外線検出器の検出能力が向上するとしても、それによって生じ得る現象を考慮することも必要であるから、当業者は、上記のような課題を有しない引用発明Cの光吸収層に、あえてp型ドーパントを含ませようとは考えない。
したがって、引用発明Cに、本件周知技術を適用する動機付けがあるということはできない。』
『b 阻害要因
前記(1)イ(ウ)のとおり、引用発明Cの赤外線検出器は、ワイドギャップ領域を設けることにより、すなわち、ドーパントがなるべく除去された第2の化合物半導体層と第3の化合物半導体層との間の伝導帯レベル差ΔEcを大きくとることにより、キャリアの熱生成レートを非常に小さくするとともに、コンタクト部におけるキャリア生成から活性領域を隔離することによって、検出能力を向上させるというものである。
一方、本件周知技術は、光吸収層に、伝導帯の電子密度が低減する所定の濃度に至るまでp型ドーパントを含ませるというものであるところ、その場合には、第2の化合物半導体層と第3の化合物半導体層との間の伝導帯レベル差ΔEcは、p型ドーパントに相当する分だけ小さくなる。
そうすると、伝導帯レベル差ΔEcを大きくとることによって、検出能力を向上させるという引用発明Cの作用は、本件周知技術を適用することにより、阻害されることになる。
したがって、引用発明Cに、本件周知技術を適用することには阻害要因があるというべきである。』
『c 被告の主張について
(a) 被告は、伝導帯の電子に対するバリア層の存在により、光吸収層で発生した熱励起電子がp層側に流れることが抑制されたとしても、熱励起電子がn層側に流れると雑音になるから、熱励起電子の発生はバリア層の有無によらないと主張する。
しかし、熱励起電子がn層側に流れること自体は、光起電力型の赤外検出器において検知の対象となる光電流のオフセットを設定することによって調整可能なものである。p層側に流れる熱励起電子が雑音として問題になるのであるから、バリア層として伝導帯レベル差ΔEを有する引用発明Cにおいて、バリア層とは無関係に、光吸収層の伝導帯の電子密度を低減させるという課題が存するということはできない。
(b) 被告は、引用例4には、高温動作のためには光吸収層がπ型(低濃度p型)であることが好ましい旨記載されていると主張する。
しかし、引用発明Cの第2の化合物半導体層(光吸収層)がπ型であるとしても、それは、意図的に添加物をドープしていない(「Undopted」)半導体層であって、ドーパントはなるべく除去されているのであるから、かかる記載をもって、引用例4に、第2の化合物半導体層をp型ドーピングすることが示唆されているということはできない。
(c) 被告は、光吸収層にドーピングをしても、伝導帯レベルの変化は僅かであるから、エネルギー障壁の高さはほとんど変わらない旨主張する。
しかし、引用発明Cの光吸収層の第2の化合物半導体層は、意図的に添加物をドープしていない半導体層であって、「近真性p」としての性質を示すものであるから、p型の性質を示すとしても僅かなものである。そして、このような第2の化合物半導体層に、光吸収層の伝導帯の電子密度が低減する所定の濃度に至るまでp型ドーパントを含ませた場合、それが、第2の化合物半導体層と第3の化合物半導体層との間の伝導帯レベル差ΔEcに与える影響を小さいものと直ちに評価することはできない。
したがって、伝導帯レベル差ΔEcを大きくとることによって検出能力を向上させるという引用発明Cの作用が、本件周知技術を適用しても、阻害されることはないということはできない。』
『(オ) よって、引用発明Cに周知技術を適用することにより、相違点c-1に係る本件発明1の構成を備えるようにすることを、当業者が容易に想到することができたということはできない。』

[コメント]
本件発明と主引例に係る発明との相違点が、半導体層へのドーピングの有無、ドーピング濃度、半導体層の構成材料の相違、ドーパントの相違などである場合、かかる相違点に対応する記載がされている副引例や周知技術を挙げた上で、当該相違点は設計事項であり容易想到であると判断される場合は少なくない。しかし、ドーピングの有無、ドーピング濃度、半導体層の材料、又はドーパントの種別を変更することで、電子や正孔の挙動が影響する結果、主引例に係る発明が意図する作用を損なう場合は往々にして発生する。
半導体物性の分野においては、近似する文献が数多く発見されることから、拒絶対応時には各文献を精査して、各文献に記載された発明が意図する作用効果を理解した上で、副引例に係る構成や周知技術を主引例に係る発明に適用することへの動機付け、阻害要因の有無を検証することが肝要である。
以上
(担当弁理士:佐伯 直人)